~父との別れ★~
1月9日、父とお別れしました
元旦に会った時、透析後だったのもあってか
調子悪そうだったけど、正月終わったら
トラクターで田んぼうねるんだ!って張り切ってたのに・・・
1月4日、透析中に具合が悪くなり入院。1月6日、軽い脳梗塞なので
2週間で退院できるとの連絡。そして9日の朝、病院から
足りないものがあるから持ってきてほしいというので
母が向かっていたところ、意識不明になったと連絡が入った
母が病院に到着すると
回復は無理そうだから会わせたい人いればと
子供や孫、父の兄弟集まるもコロナのせいで会えるのは2人だけ・・・
母と姉が最期を看取ってくれました
死因は末期の腎不全って言ってたけど
正直先生も何故?ってビックリされてたらしい
まぁ弱っていたのは私が見ても感じてた事なので仕方ないのかなと。
ただできればもう少し頑張ってもらって
親孝行させてほしかったな
年末に食事に行った時喜んでたので正月終わったらまた行こうね!って
約束してたのに・・・
”親孝行したいときには親はなし”とは・・・よく言ったもんです
昔の人のいう事は間違いないね
父と会ったのは実家に戻ってから。
お顔を見た時、寝てるみたいで今にも目を開けそう
とっても穏やかなお顔でした。悲しいのはもちろんだけど
年末に父と2人で話す事があって
“体があちこち調子悪いのはつらい”
”情けない”と弱音をはいていたのでこれで楽になったかな。とも正直思った
親は先に逝くものだし、85キロ、65キロ、47キロと
痩せていくのを見てる側も辛かった。
もちろん生きててほしいには決まってるけど。
田舎なので父の事を知った弔問客が
次から次へと来てくれて涙を流して悲しんでくれてるのを見ると
有難い事で、父の人生はよきものだったんだなって。
父は交友関係が幅広く私と同じくらいの世代とも
仲良かったり、魚捕りのお弟子さんもいたり
色んな友達がいたんだよね
お通夜は13日告別式は14日。13日の朝まで実家にいるので
毎日仕事が終わってから実家に会いに行きました
12日の夜は最後なので
母と三姉妹で父の脇で朝まで一緒に過ごすことに。
義弟と甥もいたので父が隠し持ってた酒を
みんなで飲んであげよう!ってことになり
ウイスキーをストレートで飲み(父の飲み方で)
日本酒を飲み、ワインを飲んだら
義弟がデレ助になり私に怒られ、甥は庭で吐く始末(笑
最後の夜は笑いありで2時くらいまで騒いでました
お通夜告別式にも80過ぎのおじいさんのとこに
たくさんの方が来てくれ改めて父の偉大さを感じ
最後のお別れで棺の中に
家族写真と感謝の手紙を入れました
この間四十九日の法要も終わりひと段落
父が1番好きだった酒を甥が買ってきて

義弟と甥で悪酔いしない程度に飲んでたね
(今思うとただ飲みたいだけのような・・・笑)

遺影は最近の写真で作ったものの
やせ細ってたので10年前のふっくら健康的な時のものに
作り直しました
父が乗ってた古いクラウンと軽トラは私がもらい

さすがにクラウンは税金も高いので
処分して軽トラは会社で使うことに。
数日後、実家に行った時
母が形見にと言って父と母のペアの指輪と
父が母にプレゼントしたネックレスを貰いました

母が生きてるのに貰うっておかしくない?と言うと
死んだら渡せないからって・・・
しかも”売っちゃっていいよ!”まで言ってるし(笑
さすがに売れないけど有難く貰ってきました
ホントに突然の別れでビックリしたけど
日々が経つにつれて慣れてくるもので
告別式までは普段朝までグッスリの私も寝つきが悪く
夜中に何度も目を覚ますこともあったけど
納骨がすんだ夜からはグッスリ眠れるようになり
少し申し訳ないなと思うくらい
もちろん思い出せば悲しいには決まってるけど
最後まで好き勝手やってた父なので
みんなも好き勝手しても何も言わないと思うんだ
自分も楽しみながら
父にできなかった分まで母に色々してあげなきゃと思います
そういえば
虫の知らせってよく耳にするよね
父は7人姉弟妹がいるんだけど
女ばかりだから普段はうるさがってたの
でも年末にみんなに電話をして正月5日に
みんなで集まろう!って連絡してたらしい
叔母たちはいつも電話なんて
よこさないのにどうしたんだろうって思ったとか
今思うと父は自分の寿命がそろそろかなって
何かしら感じてたのかな
頑固でワガママで男気がある人でした
享年82才
1月9日とてもキレイな青空のこと

*長々とすいませんが備忘録のためお許しを
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